「スポーツという真剣勝負のその先にあるもの」
は、感動、と言いそうですよね。
最近、とある方のTwitterを見て、感動という言葉がスポーツにそぐわないものではないか、とハタと思いだしたのである。
そう考えてみると、昌磨は2018年の平昌の頃に、
「スポーツの魅力は真剣勝負の先にある美しいもの」とはっきり明言していた。
(私もブログで書いてるやん)
そうですよね。
スポーツは感動、と定義付けてきたのはいつの頃か。
感動とは、「物に深く感じて、心を動かすこと。」
または「深く感銘を受けて心を動かすこと」
感銘って言葉を調べると、
「忘れられないほど深く感じること。心に深く刻みつけて忘れないこと」
だそうだ。
まぁ、強制されるものではないが、最近感動がビジネス化していて、スポーツなど、
なんでも付けりゃいいという感じがしている。
ぶっちゃけ、どんなスポーツでも感動するか、どんな選手でも感動するか、と言ったらそうでもない。
SNSでも、ネットニュースでも、その選手がいかに素晴らしいか、
いかに功績を遺したか、などなど、うるさいくらい報道される。
ただ、報道の仕方も、〇〇が認めた、とか〇〇のライバル、とか
枕詞もうざったい。
感動の押しつけは勘弁してほしい。
世の中は、虚構に満ちている。
悪意があるか、ないかにかかわらず、真実が見えにくい。
情報はネットが普及する頃と比べて、恐ろしく多い。
しかし、真実が見えない。
当たり前だ。
整くんの言う通り、「真実は人の数だけある」のだ。
事実はひとつしかない。
その事実すら、捻じ曲げられている可能性もあるが、きっと探せば見つかる。
インタビューで本人が語っていた言葉、しぐさ
競技中のその人、他者のバイアスにかけないそのものを見て、
見つけることだ。
SNSで声高に叫んでいる人たち、マスコミに言いたい。
どの選手が素晴らしいかどうか、語るのはいい。
しかし、他の人が語っているのを「間違いだ」と決めつけるのはいけない。
もちろん事実部分については、究明するのはいい。
その選手の価値とか、素晴らしさとかは、あなただけのものであって、
すべての人の物ではない。
勘違いしないで欲しい。
不特定多数の人達は、あなたたちに対してコメントなんかしない。
どうでもいいからだ。
自分の真実だけが大切なのだから。
解ってほしいなら、争うだけでなく、もっと事実を連ねて、
万人のジャッジを仰ぐしかないのだ。
人の意見に惑わされず、事実だけをしっかり見て、
その上でしっかり考えるしかない。
きっとその先に、本当の自分の真実が見える。
でも悲しいかな、それはまだあなただけのもの。
でも、世界でひとつ、あなただけのものだ。
話はそれたが、スポーツの感動って何に感動するのだろう。
技なのか、記録なのか。
自分を振り返ると、もっと違うものに心を動かされている気がする。
フィギュアで限定すれば。
真央ちゃんのソチフリー。
草太の復活の全日本。
フランス杯を経た昌磨の全日本。
ネイサンの平昌のFS
などなど。。。。
きっと彼らが努力して、山や壁にぶち当たり、それを尋常でない努力で
乗り越えてきた姿に感銘を受けている気がする。
それを感動と表現するか。
美しいと表現するか。
その他の表現をするか。
その人の心と感受性、相性次第なのだなぁと感じる。