文明の利器(古い言葉だな)が発達してくると、いろんな功罪が出てくる。
戦後の三種の神器どころではない、SNS。
私は、こういうデジタル系のものがかなり苦手で、その前のポケットベル最盛期も手を出していないし、PHSは自宅周辺が圏外だったし、スマホを手にしたのも
遅かった。
しかし、ここ最近。旅に出る時、スマホ1台あれば、ガイドブックも、旅行会話本も、
宿の宿泊予約も、TGVの予約も飛行機の予約も、全部事足りる事に気が付き、
もはや手放せない。
そして観戦チケットなども、どんどん電子化が進み、スマホなしでは、ライブも、試合も見られなくなりつつある。
しかし、その分怖いことも多い。
フィギュアファンの暴徒化。
自粛警察、誤ったツイートによる無実の人への迷惑。
twitterなどは本名でないので、気楽につぶやいてしまえるし、
いいね、とかリツイートしたら同意と取られるし。
一番の問題は、以下の外科医の方がつぶやいていた事ではないかと思う。
前にも書いたけど、SNSの怖いところは、自分の信じたい話を「何とか見つけ出せてしまう」ことだと思う。
— 外科医けいゆう|Takehito Yamamoto(山本健人) (@keiyou30) January 30, 2021
たとえ自分がとんでもなく誤っていても、自分を肯定してくれる心地良い主張を見つけ出すと「ようやくまともな人に出会えた」といって信念が補強され、そのうち取り返しがつかなくなる。
自分が不快感に感じた事も、同じ意見が流れてきたら
「そうだよね、そうそう」とうれしくなって、エスカレートする。
「取り返しがつかなくなったこと」
2006年のトリノ五輪のメダリストのサインボードに「FUCK ISU」と
落書きされたことや、テンくんの事件。。。。
色々ありますよね。
怖いのは、彼らが自分がまっとうだと思い込み、他が間違っていると思っている事。
SNSは広い世界も見えるが、視野の狭い世界を強調させてしまうこともある。
その狭い世界は心地よく、抜け出せない。
こんな小さな携帯の向こうには、大きな世界と小さな世界がある。
SNSや、ブログ、記事、HPに書かれている事は、すべて真実なのか、どうか考えて欲しい。
そしてテレビで報道されている事や、新聞に書かれている事、書籍になっている事だって真実とは限らない。
主観の入らない書籍は、資料集くらいしかないのではないか。
その資料集だって、掲載するものを選んでいたら、それは意図的に主観を入れてきていると同じだ。
情報は一つだけでなく、複数手に入れる。
そして手に入れたら、しっかりと解釈し、自分で何が真実か考える。
これは面白い事に古典の解釈と同じである。
たとえば源氏物語。
昔は写本だったので、今ある源氏物語の原本はどれかわからない。
写本も色んな種類があって、てにをはが違っているものもある。
それはどうしてか。
伝言ゲームと同じで、少しずつ違ってくるのだ。
(私が大学で学んだだけでも6つの写本がで勉強した。実際はもっと存在する)
それを並べて、訳して、どれが正しいのか解釈する作業がある。
これによって、同じ物語でも全く違ったものになってしまうこともある。
同じ事実でも立場が違う人から見ると、全く違うものになる。
自分で思うだけなら勝手だが、それを他にまき散らすのは悪だ。
そして、「Aだと思った」だけならいいが、それも伝言ゲームのように、
「Aだったと思う」そして「Aだった」と、変化してくのだ。
自分の都合のよいように。
怖い。
だけど便利である。
人類が作ったものに、人類が振り回されてはいけない。
薬となるし、毒ともなる。
それを理解した上で使うべきだ。
森会長の問題で、経団連の中西会長が
日本社会にはそういう本音が正直あるような気もしますし、こういうのをわっと取り上げるSNSっていうのは恐ろしいですね。炎上しますから
と笑いながら述べたとあるが、このオヤジの問題はさておき、わっと取り上げるSNSが恐ろしい、というのは事実だ。
ただ、このご時世、日本企業のトップ中のトップの経団連の会長がこんなでは、
日本は世界の笑いものになるというものだ。
話が結構ずれてしまったが、社会的な広がりの問題も重要だが、
東京五輪と、来年の北京五輪まで、自分の推し選手が傷つかないように
そしてSNSで「その場の空気感」や「点数の出方」が変わらないように
して欲しいと願っている。
アスリートの演技の空気感は、SNSで事前に作られたものではなく、
その場を演技で圧倒した選手が作るものです。
【今日の独り言】
北京まで一年、と言う時期に、やたら特定の選手の盛り上げが気になる・・・
中国企業のスポンサーがついた時、なんで?と思ったけど、
そういう事なのだろうか、と勘繰ってしまう。