【ご連絡】
記事をアップした後、タイトルを少し変更しました。
記事の内容から、ご希望の内容と取れない可能性があるかと思いまして。
変更前・・「真剣勝負の先にあるもの~オータムクラッシックを終えて」
変更後・・「真剣勝負の先にあるもの~スポーツとしてのフィギュア~」
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この週末は、JGPとオータムクラシック、ロンバルディア杯と
関東ローカルですが、フレンズオンアイスの放映と
フィギュアファンに取っては、眠られないほど忙しい日になりましたね。
その中で、睡魔と闘い、オータムクラシックの男子FPを見てました。
(そのかわりがっつり、昼まで寝てしまった・・・)
優勝は羽生さん。二位には、ケヴィンエイモズくん。
三位には新婚ホヤホヤ キーガンくんとなりました。
羽生ファンが待ちわびた、羽生さんの初戦。
観客席の最前列には、黄色の熊を持った人たちが鈴なりでした。
ソチ前にこの状況を予測していた人たちはどのくらいいたでしょうか。
正直、私は羽生さんは強くなる、とは思っていましたが、
これほどファンが増えるとは予想だにしておりませんでした。
試合結果と内容は私がここで語るより、SNSだったり、ニュースだったり
見た方が早くて正確だと思います。
あくまで結果のみ、ご覧になってくださいね。
スポーツも芸術も、結果は結果のみ。
ただ、これを見た人には、結果ではなく、プロセスが語るものが
付いてくるのです。
スポーツというものは、勝つためだけにあるものなのか、ということです。
もちろんみんな勝つために努力をしています。
でも、すべての人に「勝ち」は用意されていません。
数値の上で、勝つのはただ一人です。
フィギュアで言えば、通年は国内はナショナル。世界ではワールド。
四年に一回のオリンピックです。
今日のオータムクラシック。
羽生さんはノーミスの演技はできませんでした。
彼自身、ノーミスを望んでいたようです。
そして今シーズンのワールドでは、自分を越えたいといっていたようです。
それならいいのですが、
「負けるくらいなら、辞めろ。ぶざまな姿は絶対見せたくない」
たぶん彼の「負ける」というのは表彰台の順番のことだと思います。
常に強い自分というのも、そこに基準を置いていると思います。
あくまで提供されたコメントから推察した結果です。
本当に彼がそう思っているのかは知りませんが、そのように取れる発言だったと
思います。
3連覇が懸かる22年北京五輪について、羽生は「(そのシーズンまで)そのままやっていたら出ます」と、さらりと言ってのけた。大会終了後、会場内の一室で行われた日本メディア向けの囲み取材。矢継ぎ早に様々な質問が飛んだ。引き際について「負けるぐらいだったら辞めろっ、て思ってる。ぶざまな姿は絶対見せたくない」と価値観を示した上で、「明言はできないですけど、常に強い自分でありつつ、その先にそれ(北京五輪)があったらと思います」と、今後についての思いを初めて明かした。
でも、すべての人が勝てないから「辞めなくてはならない」のでしょうか。
勝つことだけがスポーツの価値なのでしょうか。
もちろん勝つために努力するのがスポーツです。
でも悲しいかな、スポーツも才能、資質というものが多く影響するため、
努力だけでもどうにもならない。
これは、万国共通なのです。
でもひとつのことに努力した結果が勝てばそれに越したことはないのですが、
努力し続けることにも大きな価値があると思うのです。
当たり前、と思いますが、そういうものの先に人の感動があるのです。
いつもぼんやり、と感じてはいたのですが、はっきりと明言してくれた
アスリートが二人います。
宇野昌磨選手とネイサン・チェン選手です。
昌磨先生のオリンピアン2018のインタビュー記事から。
昌磨先生は、このオリンピックで全国区となりましたが、それは
天然キャラのインパクトと初出場、銀メダルという快挙があったからです。
地元の有望選手として愛されてきた昌磨先生の言葉は、口下手ゆえ、地元とはいえども
なかなか聞く機会がなかったのですが、この記事を読んで、
びっくりしました。
Q:宇野選手が感じるフィギュアスケートというスポーツの魅力とは。
A:スポーツは真剣勝負の先にある美しいものだと感じています。
真剣に戦いながらも、選手同士が上下関係なく、いい関係を築いていることもフィギュアスケートの魅力だと思います。
スポーツの先にある「美しいもの」
それが数値化されると優勝だったりしますが、それだけではない。
なんて言葉選びが素晴らしいのでしょうか。
その先を追い求める選手の姿に感動し、応援し、力をもらっているのだ、と
改めて感じ入りました。
そしてネイサン。
最近のインタビューですが、まだ文字起こしがされておらず、
色んな方がSNSなどに訳してくださっている内容を見て、
またこれもしかり、と思いました。
こちらのインタに色々話しているのですが、
ネイサンにとっての「成功」は目標をたてて、そのために努力し、達成できなくても可能な限り近づけたらそれが「成功」となる。
スケートもそう。勝てるかどうか自分ではどうにもできないけど。
(と話しているらしいです)
努力の先にある、「成功」
自分ではどうにもならない「勝利」
でも近づけることはできるし、運で取れることも、逃すこともある。
その努力する姿に人は感動します。
もちろん努力の先にある成功が一番わかりやすくはあるのですが。
この間のワールドでもネイサンは
「勝てなくても死ぬわけじゃない」とおもったそうです。
過去の失敗から学んだのですね。
私も平昌では「ネイサン、国に帰れないかも」と思ったのは
事実です。
そしてネイサンは金メダルは取れなかった。
しかし、翌日のFPで素晴らしい演技をしました。
感動しました。
彼の今までの努力の結果が、素晴らしい結果を生んだのです。
昌磨も「ネイサンの演技が一番よかった」と言ってました。
羽生さんにも思い出して欲しいです。
でないと、自分がつぶれてしまう。
期待するファンのため、といいつつ、自分で「幸せ」から遠ざかっている。
すべてを捨てて、スケートだけに打ち込んできた。
そういう環境にいられることもすばらしいこと。
でも、それが不幸だったと感じるなら、正しい「努力」でないと思います。
幸せを制限したら、成功がやってくる。
それは何かの対価でしか、成功はやってこないのでしょうか。
好きなスケートをやっていること自体は、幸せではないのでしょうか。
金銭的、才能、運、すべて揃っているから今、できている。
そういう幸せな羽生さんを見たいとファンは思っていると思います。
「負けは死も同然」
なんていわないで。
簡単に「死」という言葉を使わないで。
そんな事のために、スポーツはあるわけではないのです。
努力して、転んでも、みんなあなたの事が大好きだと思うし、
応援している。
プライドの持ち方を変えるだけです。
真剣勝負の先にあるもの
オータムクラシックを見て、演技以外で感じたことです。